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1: 原爆の日(3) 


【1:3】原爆の日
1 名前:名無しさんの祈り@くりすちゃんねる:2010/08/09(月) 15:03:42
「長崎の鐘」
長崎の鐘は永井隆が執筆した随筆。1949年1月に出版され、
紙不足の当時としては空前のベストセラーとなった。同書をモチーフとした歌謡曲はヒット。
さらに松竹により映画化され、版を重ねることになった。
随筆 [編集]
作品は、1946年8月には書き上げられていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲によりすぐには出版の許可が下りず、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年1月、日比谷出版社から出版された。
歌謡曲
藤山一郎、池真理子の歌謡曲。作詞サトウ・ハチロー、作曲古関裕而。
1949年7月1日コロムビアレコードから発売された。翌1950年頃から藤山の作曲により、
永井隆の短歌によるサビ部分が付け足された。また、本作品発売の2ヶ月後、永井一家と
交流のあった植本一雄の作詞・作曲による藤原義江の歌謡曲が同タイトルで発表されている。
古関版の「長崎の鐘」は、ソプラノ歌手藍川由美の「古関裕而歌曲集」にも収録されている
(同CDには、藤山版のサビ部分と同じ歌に古関が作曲した曲も収録されている。
もともとその短歌は、藤山の歌った「長崎の鐘」を聴いて感動した永井が詠んで古関・
サトウ・藤山に贈った歌であった)。なお、古関版「長崎の鐘」の歌詞には、原爆を直接描写
した部分は全くない(当時の米軍の検閲をはばかったものと思われる)。
ヒットの要因
1949年4月4日のレコーディング当日、藤山は40度近い高熱を出し苦しんだ。
戦時中セレベス島で感染したマラリア熱が再発したのであった。妻の運転する車でスタジオに
乗り込み、録音を後日にして欲しいとの旨を願い出たが、式場隆三郎博士と山下清画伯がスタ
ジオ見学に来ていたため、仕方なくそのまま録音し、藤山は息も絶え絶えに1度吹き込み、
再吹き込みすることなく、そのまま発売。この鬼気迫る歌声が大衆の心を揺さぶり大ヒットとな
ったのである。
映画 [編集]
製作: 松竹大船
封切日: 1950年9月23日
監督: 大庭秀雄
脚本: 新藤兼人/光畑硯郎/橋田壽賀子
音楽: 古関裕而
出演者: 若原雅夫、月丘夢路、津島恵子、滝沢修、三井弘次
占領下の日本において、GHQによる検閲の為、原爆及び被爆状況等について真正面から取り
上げる事が出来ず、永井隆博士の生涯を描いた作品という形で製作された。
尚、戦後、日本人によって原爆を取り扱った劇映画第一号である。



2 名前:名無しさんの祈り@くりすちゃんねる:2010/08/09(月) 15:20:43
永井 隆(ながい たかし、1908年(明治41年)2月3日 - 1951年(昭和26年)5月1日)は医学博士。
「長崎の鐘」「この子を残して」の著者。

1908年(明治41年)2月3日 島根県松江市にて、医師であった父寛、母ツネの長男(5人兄弟)として
誕生する。祖父文隆より1字を授かり隆と命名される。幼少青年期を三刀屋町(現・雲南市)ですごす。
1928年(昭和3年)4月 松江中学を経て、長崎医科大学(現:長崎大学医学部)に入学。大学入学まで
はスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと大柄な体格であったことから
長崎医大篭球部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会3等、西日本
選手権制覇などに貢献する。
1931年(昭和6年) 浦上天主堂近くの森山家に下宿する。なお森山家の一人娘が後に妻となる緑(洗礼
名:マリア)であった。森山家はカトリックであったことから、カトリックに興味を持ち始めたと言
われている。
1932年(昭和7年)4月 大学卒業後、助手として放射線医学教室に残り、放射線物理療法の研究に取り
組む。
1933年(昭和8年)2月1日 幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、満州事変に出征する。
1934年(昭和9年)
2月1日 帰還する。大学の研究室助手に復帰。
6月 洗礼を受け、カトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ会に入会(洗礼名:パウロ)。無料
診断・無料奉仕活動などを行ない、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。
8月 森山緑と結婚する。緑との間には一男二女(長女は原爆投下前に夭折)をもうけた。
1937年(昭和12年)
長崎医科大学講師に就任する。
日中戦争に第5師団衛生隊隊長として出征する。
1940年(昭和15年) 長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任する。
1944年(昭和19年)3月3日 『尿石の微細構造』で医学博士号を授与される。
1945年(昭和20年)
6月 長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける。この時、白血球数10
万8000、赤血球数300万であった。(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)
8月9日 長崎に原子爆弾が投下される。爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆
する。右側頭動脈切断という重傷を負いながらも布を頭に巻くのみで、救いを求める人々の為に尽力する。
8月10日 帰宅。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見、骨片を拾い埋葬。
8月12日 救護班を組織し、被爆者の救護に当たる。
9月10日頃 昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として一句。「光りつつ 秋空高く 消えにけり」
9月20日 再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散となる。
10月15日 「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を作成。長崎医大に提出する。
1946年(昭和21年)
1月28日 長崎医科大学教授に就任する。
7月 長崎駅近くで倒れる。以来、病床に伏すことになる。
11月17日 長崎医学会にて研究発表。題名は「原子病と原子医学」。
1948年(昭和23年)
荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈する。
これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。
3月 浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行なうための庵が完成する。「己の
如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付ける。
8月 大学を休職し、療養に専念する。
10月18日 来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。
1949年(昭和24年)
5月27日 昭和天皇に会う。
5月30日 ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿が見舞いに訪れる。
8月1日 長崎市長から表彰を受ける。
9月30日 長崎医科大学教授を退官する。
12月3日 長崎市名誉市民の称号を受ける。
1950年(昭和25年)
5月14日 ローマ教皇特使としてフルステンベルク大司教が見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される。
1951年(昭和26年)
2月3日 白血球数が39万を超える。
4月25日 右肩内出血により執筆不能となる。
5月1日 長崎大学付属病院に緊急入院。21時50分、逝去。享年43。
5月2日 遺体解剖(医学解剖に献体する)。
5月3日 教会葬が執り行われる。
5月14日 長崎市公葬。長崎市坂本町にある国際外人墓地に葬られる。

1952年(昭和27年) 長崎市に市立永井隆記念館が開館。1998年からは長男の誠一が館長を務めた。
次女の茅乃は作家として「娘よ、ここが長崎です―永井隆の遺児、茅乃の平和への祈り」を刊行している。
著書 。
長崎の鐘(1946年8月)
原子野録音(1947年〜1951年 「聖母の騎士」誌上にて連載)
亡びぬものを(1948年1月)
ロザリオの鎖(1948年3月)
この子を残して(1948年4月)
生命の河(1948年8月)
花咲く丘(1949年4月)
いとし子よ(1949年10月)
乙女峠(1951年4月)
如己堂随筆(1957年12月)
村医(1978年4月)
平和塔(1979年11月)
長崎の花 上・中・下(1950年 日刊東京タイムス誌上にて連載)

3 名前:名無しさんの祈り@くりすちゃんねる:2010/08/09(月) 15:29:21
いよいよ、平和への祈りを絶やさないようにしなければいけないと思います。
くわえて世界中の子どもたちの教育、飢餓救援、文化的援助を根本的に考える
べき時に来ているかも・・・。

いよいよ切に、神の愛が豊かに必要な人に豊かにそそがれますように。

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